「天国と地獄」で再び黒澤+ミフネ作品を観る

黒澤監督+三船敏郎を再び。タイトルは知っていたけれどきちんと観たことがなかったので。アマプラで鑑賞しました。

「天国と地獄」

https://m.media-amazon.com/images/I/91ArLcgIGSL._AC_UL640_FMwebp_QL65_.jpg

Amazon.co.jp

製靴会社の役員権藤(三船敏郎)は、自分の息子と間違えられて運転手の息子が誘拐された事を知る。身代金は3000万円。しかし権藤の手元にある大金は、社内の実権を握るべく自社株を買い占める為自宅を抵当にして用立てたものであり、これを使えば地位も財産も全て失うことになる。苦悩の末、犯人の要求通りに金を渡すことを決意した権藤は、犯人の指示通りに金を受け渡し運転手の子供は無事に解放されたものの、身代金と共に犯人は逃走してしまう。

エド・マクベインの小説が原案。映画の舞台は昭和30年代の横浜。工員から成り上がった権藤が住む高台の邸宅は、川の向こう岸にあるバラック密集地帯から見ると、まるで別世界のようでまさに資本主義の象徴のよう。

それを日々目にすることで妬みと憎悪を募らせていた、というのが犯人の動機。

リスクを冒してまで犯罪に手を染める理由としては弱いかな、と思われましたが、緻密に犯人を突き止める刑事たちの追跡や、まだ戦後の空気が色濃く反映されている巣窟のような情景など、リアルさを追求した映像の迫力の方が上回りました。

更に、当時まだ無名だった犯人役の山崎努の独白に鬼気迫るものがあり、動機の弱さを力技?でねじ伏せたような感があります。

冒頭からやたら態度が大きく(声も大きい)偉そうな印象だったのに、実は人情に弱く苦労人で人望が厚い、という役どころの三船敏郎もなかなかいい味でした。

この他、のちに名優となるような人が「新聞記者その他大勢」のような扱いで出演しているのを見るのも興味深いです。

憎しみの対象としていた富を持つ権藤は、裸一貫となってもやり直しを遂げており、結局逆恨みまでして晴らそうとした犯人の恨みは、最後まで晴れることができなかった、という皮肉が込められたラストも良かった。

高度成長を駆け上がった者と取りこぼされた者。当時の日本の暗部が強烈に描かれた作品でした。

「暗殺の森」で評価の高い映像美に触れてみる

「好きな映画ベストXX」で見るとほぼ高い確率でヒットされる有名な作品。今更ですがアマプラで。

暗殺の森

https://eiga.k-img.com/images/movie/4213/gallery/main_large.jpg?1441962906

映画.com

第二次世界大戦前夜のイタリア。幼い頃自分を犯そうとした運転手リーノを射殺してしまった記憶に未だ囚われるマルチェロ。精神病院に長く入院する父親、モルヒネ中毒の上お抱え運転手を愛人にする母親という、歪んだ環境から脱すべく、当時の波に乗るようにファシズム組織に加入、更にブルジョア家庭の平凡な娘ジュリアと結婚して「特殊ではない普通の自分」を取り戻そうとする。やがて組織からの指令で、自身の大学時代の恩師であり反ファシズム運動のリーダーであるクアドリ教授の身辺調査を任されたマルチェロは、新婚旅行を兼ねて教授とその妻アンナの住むパリへ向かう。

大した志も持たぬままに傾倒したファシズムは戦後あっさり崩壊。しかも自分の「普通ではない」生活は幼少期の「性的トラウマ」が少なからず影響されていた(と思っていた)にも関わらず、結局それも勘違いだったというオチがつき、政治的にも性的にもアイデンディティの確立されない中途半端な男を、皮肉を込めて描いた作品、というところでしょうか。

その「映像美」が特に評される本作。確かにアンナとジュリアが周囲の注目を集めながら踊るダンスシーンや、雪が残る森でクアドリ夫妻が暗殺されるシーンは、独特の映像でとても印象的ではあります。

が、凝った音楽と映像で織りなす主人公の倒錯した世界はそれなりに理解したものの、共感するところまでは難しく、個人的に「もう一回観たいな」と思うまでには至りませんでした、残念ながら。「ラスト・エンペラー」の時にも思ったのですが、ベルトリッチ監督と私、相性が悪いのかも。

ところで主人公マルチェロの監視役として組織から送られる男、どこかで見たことのある顔と思ったら、「ゴッドファーザーII」でロバート・デニーロ演じるコルレオーネが暗殺する街の顔役ファヌッチ役の俳優(ガストーネ・モスキン)ではありませんか。ゴッドファーザーの時のように途中であっさり殺られるのかな、という予想に反し結構最後まで随所に登場し、なかなかいい味を出していたのが本作の思いがけない嬉しさで、映画ってこういう楽しみもあるよな、と改めて思ったのでした。

 

 

 

「薬指の標本」期待していた小川ワールドに踏み入れた感じです

あぁ「小川洋子ワールド」という感じでした。文庫本で。

薬指の標本」 小川洋子 著

https://m.media-amazon.com/images/I/51W3700cg2L._SY445_SX342_.jpg

Amazon.co.jp

清涼飲料水工場で働いていた「わたし」はサイダー製造の作業中謝って薬指の先端を切断し失ってしまう。工場を辞めたわたしは偶然見かけた求人の張り紙を見つけた町の標本室に勤めるようになる。楽譜に書かれた音、飼っていた鳥の骨、火傷の傷跡…様々な思い出の品を標本にしてほしいと持ち込む依頼人たち。わたしはそれらを受け付け、標本作業はオーナーで技術士の弟子丸が担当するが、標本室は閉ざされて作業は一切目に触れることはない。ある日わたしは弟子丸から「毎日履くように」と靴をプレゼントされ、やがてひっそりと逢瀬を重ねるようになる。

客の依頼に応じて標本を作成するという空間。そしてギリギリ最後までその作業部屋は明らかにされない世界。非常に閉ざされた世界で読者の空想(妄想?)を掻き立てられるような世界です。

これまでに触れた著者の作品の中では、「密やかな結晶」の中で主人公が捜索する物語の設定にどこか似ているな、という印象がありました。

諸々の背景はあるものの、何故か相手の意図のままに動かざるを得ない女性。

時間の経過と共に自分の意思や感情はその色合いを失われて行き、知らぬ間に愛した男の言うままに動きやがて消滅する運命…

作中顔見知りになった「おじさん」が、弟子丸からもらった靴を指して、その靴を履き続ける事は危険である旨忠告するも、結局それに従う事なく、弟子丸の元へ向かう「わたし」。

抗いがたい「何か」に引き寄せられるように導かれていく主人公。

文庫本の帯には「ひそやかな恋愛の痛み、震えるほどの恍惚」とありますが、ここから連想されるようなエロティシズムは読み取れません。

もっと淡々と、しかし撥ねつける事のできない「何か」に絡みとられていく様が、静かに描かれているように思われます。

何冊目かの小川洋子作品でごく短い作品ですが、多分想像しているところにミートするような印象だったかな、と思います。

 

中尊寺金色堂と本阿弥光悦の特別展に行ってきました

先月今年初の東京国立博物館、行ってきました。去年から楽しみにしていた中尊寺金色堂の特別展です。

「建立900年 特別展「中尊寺金色堂

https://www.tnm.jp/uploads/r_exhibition/exhibition/SPECIAL_LARGE_7531.jpg

東京国立博物館

建立900年を記念しての特別展示。国宝仏像11体が揃って寺外で公開されるのは初めてだとか。この他曼荼羅図や一切経などの国宝も合わせて展示されています。

気合いを入れて予習もして行きました。

https://m.media-amazon.com/images/I/51f+Ekhjn3L._SY445_SX342_.jpg

Amazon.co.jp

空きを狙って平日の午前早い時間に行ったにもかかわらず、チケット売り場は長蛇の列。仏教関係だし恐らく(自分も含め)シニア層しかいないだろうと思いきや外国人観光客らしき団体が。もしや円安効果か…もう平日も週末も関係ないですね。

珍しく暖かい日だったこともあって、館内はむせ返るような熱気。少しづつ集団から離れるように展示を鑑賞することに。

館内入って先ず目に入るのは、CGを使って原寸大で再現した金色堂。多分今回の展示の目玉の一つのようで、確かに迫力あり。

しかし何と言っても11体の国宝仏像が(個々にケースに入っているとは言え)間近でしかも360度から見られるのは嬉しいこと。実際に安置されている寺内では叶わない事を思えばとても貴重です。

仏像以外には、紺色に染めた紙に一行おきに金と銀字で写経され完成まで8年がかかったという「紺紙金銀字一切経」や経文を塔の形に書き写した「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅」など貴重な国宝の展示もありました。

極楽浄土を夢見、当時の贅を尽くして建てられた金色堂。「鎌倉殿の13人」に出てきた藤原氏義経の関わりを思い出しながら見ていると、丁度音声ガイドから義経(になりきった)の声が。CGと言いナビゲーションと言い、演出の工夫に感心させられます。

さらに展示風景画像を共有できるサービスも。SNS投稿等にご利用を、とちゃっかりPRしているのがとても今風。

 

 

本館特別室での比較的こじんまりした展示でしたが、創意工夫が施されて見応えあるものだったと思います。次回は是非平泉で実際の金色堂での拝観を実現させたいです。

さて、もう一つの特別展。

本阿弥光悦の大宇宙」

https://www.tnm.jp/uploads/r_exhibition/exhibition/SPECIAL_LARGE_7533.jpg

東京国立博物館

実は本阿弥光悦については「江戸時代の芸術家」である事くらいしか知っておらず、書や陶芸、漆芸から茶の湯までこれほど幅広く精通した人である事を、今回の展示で初めて知りました。

ケースに収められた茶碗や硯箱だけでなく、天井や壁をダイナミックに使った蒔絵や書の見せ方も、「大宇宙」と銘打った展示である事を物語っていて、気がついたらお目当てだった「中尊寺」よりも長く時間をかけて見ていた気がします。「舟橋蒔絵硯箱」(上写真)のマスコットキー、可愛かったのに買わずに出てきてしまったのが心残り…

さて、トーハクに来ると必ず立ち寄る東洋館。イケメンの石像にご挨拶してきました。

帰りに上野に来たら一度よって見たかった所へ。

上野では古くからある有名な純喫茶。Twitter(X)で以前から気になっていたのでようやく来れたという感じ。上野駅から2分のはずが、アメ横をぶらぶらしているうちに随分かかってしまいました。

さほどの行列もなく少し待っただけですんなり入店。が、中には若いお嬢さん方で一杯!みんなクリームソーダやパフェなど「映え」そうなメニューで楽しんでいる様子。あまりにパシャパシャ撮っているので(本当は店内撮りたかったけれど)気後れしておばさんは一人小さくなってました。純喫茶と言えば常連さんたちがコーヒーを静かに飲んでいるイメージだったのですが…そうか、昨今はレトロブームで逆に若い人達に人気があるんですね。「一時は廃業も考えた」とツイートされていたけれど、ここまで盛況ならば何より。パフェは胃もたれしそうだけれど周りのお嬢さんたちに影響されて甘めのコーヒーをいただいて帰りました。

 

 

「リボルバー」アートミステリー小説でゴッホやゴーギャンを知る

久しぶりにずっしり重たい新書版。夫の積ん読棚から拝借して。

リボルバー」 原田マハ 著

https://m.media-amazon.com/images/I/81hhUz4F7-L._AC_UL640_FMwebp_QL65_.jpg

Amazon.co.jp

幼い頃からゴッホゴーギャンに魅せられていた高遠冴は、パリで美術史の博士号を取得した後、現地の小さなオークション会社CDCに勤務し、将来的にはゴッホゴーギャンについての博士論文を発表を予定している。ある日冴の元にサラと名乗る得体の知れない女性が現れ、一丁のリボルバーを「ゴッホが自殺時に使用したもの」と提示し、競売を申し込む。その真偽を突き止めるべく調査するうちに、冴はある仮説に辿り着く。

ゴッホの自殺をめぐるミステリー小説。そもそもゴッホの死については不審な点が多く、「他殺説」が囁かれる事が多々あるらしく、本作はミステリアスな部分をついて創作された作品でしょう。

しかし興味本位の「噂話」に乗っかっただけのお話に終わらず、重厚なストーリーとして成り立っているのは、恐らく膨大な資料の上に丹念に積み上げられただけでなく、何より作者の画家や絵画に対する大きなリスペクトがあるからだと思います。

美術館巡りや絵画鑑賞は好きなものの、ゴッホについては、「生前は評価が低かった」「精神を病んだ末に耳を切り落とした」「家庭を持たず孤独のまま自殺した」など不遇のイメージしかなかった私。

でも本作を読んでいくうちに、絵画に対する熱い思いだけで一生を駆け抜けた彼に、ただ不幸な人というレッテルを貼ってしまうのを躊躇する気持ちが生じてきました。これが「フィクション」とわかっていても、です。

原田マハのアート小説、まだ多くは読んでいないけれど、毎回著者の芸術への真摯な姿勢が感じられます。そしてまるで美術の先生にアートの世界に誘ってもらっているような気分にさせてくれるのです。

今回も次にゴッホの、そしてゴーギャンの展示を観る時、きっと以前とは違う見方をするのだろうな、そしてそんな自分自身の変化がとても楽しみになります。

ゴッホに関する集大成のような位置付けの本作ですが、この他にも「たゆたえども沈まず」や「ゴッホのあしあと」で思い入れのあるこの画家について綴っている作者。まだまだ彼女を通してゴッホを知る事が出来るようで、嬉しいです。

「地球にちりばめられて」言葉や国境を越えて問うアイデンティティ

物凄く久しぶりの多和田葉子。Audibleで。

「地球にちりばめられて」 多和田葉子 著

https://m.media-amazon.com/images/I/317GhzjPEFL._SY445_SX342_.jpg

Amazon.co.jp

留学中に故郷の国が「消滅」してしまったHirukoは、ヨーロッパ大陸で生きて行く為「パンスカ」という独自の言語を作ってコミュニケーションを図っている。テレビ番組に出演した事をきっかけに言語学を研究する青年クヌートと知り合ったHirukoは、クヌートを含む数名の若者を道連れに、世界のどこかにいるはずの自分と同じ言語を話す人間を探す旅に出る。

SFのようにまるで「近未来」を描くような設定。母語を共有する者を探しながら、結局「母語とは何か」そして言語を通して「アイデンティティー」とは何か、を探求するという、まさにドイツに長く暮らし且つドイツ語で作品を生み出す著者らしいテーマが根底にあります。

これまで小説はあまり読んでおらず、エッセイを何冊か読んでいましたが、言葉に携わりながら、そこからとても客観的に自身を分析したように描写されていた印象があり、心に残った記憶があります。

独特な人物設定と言葉遊び。想像していた内容と違っていた為、実は一旦は手離した本作ですが、今回再度聴いてみて改めてこの不思議な世界を「面白く」感じました。

多言語を使う事によってかえって意識せざるを得ない「本来の自分」。母語を話すよりも外国語を話すことで他者を演じる、或いは演じ分ける方が楽だ、という台詞があり、これも興味深かったです。

祖国が消滅し、母国語(日本では母語=母国語だと思いますが)を共有する者がおらず、国境さえも曖昧になっている世界。グローバル化が提唱されて久しいですが、国に捉われず皆「地球人」という事になれば、まさにグローバリゼーションの実現となるのでしょうか。

先日YouTubeで、円安が続く現在、これからはもっと外資に頼らないと(移民を積極的に受け入れ土地もどんどん外国に買ってもらわなければ)日本はダメになる、と言うコメントを耳にしました。

本作のシチュエーションは極端ながらも、国や個人の在り方が強烈に問われているような気がします。

本作は著者三部作の第一弾という事で、これは続きを読むしかないかな…

ところで、遠い昔NHKのテレビドイツ語会話で、ドイツ在住の日本人小説家という事で紹介されていた記憶が。多分芥川賞受賞の前後だったように思います(記憶違いならごめんなさい)。当時から活躍されていたのでしょうが何分にもこちらの知識不足で、失礼ながら「あぁこんな人いるんだ」くらいにしかその時は思っていなかったものの、ドイツ在住と聞いて勝手に親近感だけ持っていました。今や世界的にも有名になった彼女。近年はノーベル賞候補にも名前が挙がっているとか。とってくれたら嬉しいな、と全く他人事ながら思うのでした。

「こちらあみ子」風変わりな少女の目線で綴られたお話

前回Audibleで聴いた著者。今回は書籍で。

「こちらあみ子」 今村夏子 著

https://m.media-amazon.com/images/I/417N6yUlMyL._SY445_SX342_.jpg

Amazon.co.jp

あみ子は、小学生の時からよく学校をサボり、たまに登校しても大声を出したり途中でいなくなったりしてしまう少し風変わりな女の子。一緒に登下校してくれる兄、優しく滅多に怒らない父、自宅で書道教室を開いていて妊婦である母と暮らす。近所には母の書道教室に通う憧れののり君もいる。自由気ままに生活しているあみ子だったが、母親が流産した頃から少しづつ家族の様子が変化し始める。

「一風変わった人物」が登場するのは本著者の特徴。前回はこちら。

minonoblog.hatenablog.com

前回も捉えどころのない人物が出てきましたが、今回は明示されていないものの、発達障害を持った少女が主人公。周囲の言動、特に心情を推し測る事ができず、(というか彼女なりには考えてはいるのですが)裏目裏目に出てしまい、結局家族崩壊に至ってしまうというお話。

一見彼女が原因で家庭が壊れてしまったかのようですが、実は既に問題は家族に内在されていて(義母は彼女を突き放し、父親は放置、兄は不良学生に)、彼女はほんのきっかけにすぎない。しかし世の中というのは「あの子のせいで…」と一括りにした見方をする、そんな家族を含めた周囲の反応が、あくまで「あみ子」の目線で描かれています。

障害者を持つ家庭への偏見が生まれるのでは、というリスクをわかった上で、敢えて障害を持った子供を設定しているとも考えられ、その意味でも家族の根本的な問題を突きつけていると思われます。

最後まで「あみ子視点」なので詳細が説明不足気味ながら、どこか客観的で突き放したような語り口。しかしこれがかえって、最終的に彼女一人が悪者にされてしまうやるせ無さを強調しているようです。

実は本作を手にしたのは、付随している短編「ピクニック」が目当て(「花束みたいな恋をした」で二度も言及されていたのは有名)。

minonoblog.hatenablog.com

「「ピクニック」を読んでも何も感じない人間」かどうかはさておき、結局タイトル作ほどには印象は強く残りませんでした。「ピクニック」に描かれている「真綿のように善意で人を追い詰めていく悪意」みたいなものは気づいたけれど、さて今どきの若者は何を感じるのだろう。