「密やかな結晶」記憶が消滅される怖さ

立て続けに「紙で」読みたくなって文庫本で読了しました。

「密やかな結晶」 小川洋子 著

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「記憶狩り」という秘密警察によってあらゆる物が一つ一つ島民の生活や記憶から「消滅」していく島。消滅するのは香水であったりラムネであったり鳥であったりするが、いずれもある日突然前触れもなく消し去られ、希に記憶を消し去る事のできない人々は秘密警察によりどこかへ拉致される。そんな島の住民である「わたし」は小説家として生活しているが、仕事上付き合いのある編集者R氏が「記憶を消せない」人物であることがわかり、秘密警察の手から逃れる為密かに自宅内に隠れ部屋を作り彼を匿うようにする。

アンネの日記」を愛読していた作者がそこから影響を得て作られたとされる本作。平穏で静かな暮らしが「何者か」により徐々に且つ確実に侵されていく様子は、さながら戦時中のナチスを連想させるものでしょう。

最初は香水など生活に支障を来さぬものから始まり、お菓子や食べ物、鳥や生き物、そして最終的には島民の人体にも及ぶものが「消滅」の対象とされていきます。

恐ろしいのはこうして静かに抹消されていくことではなく、島民がその状態に段々と慣らされていく現状です。そして記憶が消滅されずに失くしたものを覚えている「特異体質」の人々は、これもある日突然どこかへと連れ去られて、それも又漠然と受け入れられていきます。消滅されるのは単なる「モノ」から人々の「自我」である事が寒々しい印象を受けます。

作中で、小説家である「わたし」が執筆する小説もまた、「声」を失った主人公がやがて「本来の自分そのもの」を失う物語であり、この二重構造も「失う」ことへの「恐怖」を掻き立てているようです。

作者の文体はあくまで硬質で静謐、それでいて冷たく突き放していない、といういつも感じる印象をここでも得ることができます。日本語の名字が見受けられることから舞台は日本のどこかを想定しているであろうけれど、どことなく欧州の森深い場所を思わせるのは他の作品と同様でしょう。

暴力的な描写は一切無いにも関わらず圧倒的な残酷さを感じるのは、作者の表現の見事さ故のこと。

1994年に刊行され25年後に翻訳版が広く欧米で読まれるようになった本作。インタビューでは「自分が生まれる以前の過去を描いたつもり」だったと作者は言われていたようですが、四半世紀を過ぎて、近未来を連想させるディストピア小説として読まれるようになったのは何とも怖く思われます。