「百年の散歩」エッセイのような小説で時空を超えた散歩を楽しむ

前回はAudibleで読んだ多和田葉子。今回は書籍で。

「百年の散歩」 多和田葉子 著

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ドイツ・ベルリンに居住する「わたし」。ベルリンに実在する通りを一つ一つ訪ね気楽に散歩しながら、来ない「あの人」との頼りない待ち合わせの約束を思いつつ、道ゆく人々や開かれた店の数々について、時にはエッセイのように、時には空想を張り巡らせながら物語って行く。

本作一人称である「わたし」の目線で、ベルリンの街中を観察していくお話。「わたし」は作者自身なのか全く架空の人物に語らせているのか。

日本語とドイツ語の言葉の違いの中を漂うように、語り続ける作者。

レビューの中に「ダジャレがつまらない」というコメントがあったけれど、作者はダジャレで笑わそうとしているのではなく、頭の中に浮かび上がった言葉をそのまま文字にして投げつけてみる事によって、跳ね返ったきたものを試験的に拾い上げているような気がします。

著者は、日本語でもドイツ語でも作品を残している作家。しかし、母語以外で作品がある事が決して目的なのではなく、母語の外に出ることよって、「母語」と「母語の外」の間の空間にいる自身の感覚や立ち位置を観察する事に関心がある、という趣旨のコメントを彼女のエッセイで読んだ記憶があり、とても新鮮に感じたのを覚えています。そして新鮮さと同時に、自分は外国語を学んだ先にこのような境地にたどり着ける事が出来るのか、いや残念ながら恐らくそこまではいけないんだろうという、漠然とではありながら実感したものでした。

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今回本作を読んで、「言葉遊び」を重ね時には時空を超えながら、ベルリンの街や自身を観察する文章に触れて、改めて「母語」と「母語外」のはざまを客観的に捉える作者の視点はとても興味深いです。

政治や環境問題に関しては在住するドイツのマジョリティに影響されている事が伺える描写であったものの、概ね何者にも囚われないスタンスを維持しているように伺える表現も。

さて「エッセイのような小説のような」本作。かなり後半で「あの人」についての描写が出てくるのですが、ごく抽象的。それならばいっそ「実在するかどうかわからない」人であっても良かったのでは、と感じましたがあくまで個人的な感想です。

空想(妄想?)と現実が、それこそ百年の時空を超えて行き来するような本作。よそ見しているとおいてけぼりにされそうで、なかなか手強かったです。